ローマ・ショック

 イタリア渡航歴は3回、惚れた身としては甚だ不十分。これからが勝負の序の口、そろそろ序二段、横綱ははるかかなた。

 1996年2月末、長い学生生活の終えて定職に就く直前の春休み、友人と二人でパッケージ・ツアーに参加した。イタリア&スペイン情熱紀行13日間、パックツアーとしてはかなりフリータイムが多く、ゆとりのあるスケジュール。その最初の目的地がローマだった。

 さて、当時の私はとある経験から立派な建造物不信に陥っていた。ローマといえばコロッセオColosseo、コロッセオといえばローマ。それからフォロ・ロマーノForo Romano、パンテオンPantheon、サン・ピエトロ大聖堂Basilica di San Pietro、トレヴィの泉Fontana di Trevi、スペイン広場Piazza di Spagna、エトセトラ、えとせとら。立派な建造物には事欠かない。でも・・・と立派な建造物不信の内なる声がささやく。

―コロッセオいうたって、どうせ大したことないやろ。ただ丸っこくて、あっちこっち崩れただけの廃墟とちゃうん?
 
 ということで、今から考えれば信じられないほどの淡泊な期待と関心しかもたず、かの地に向かったのだった。それで もなんで行ったかというと、その数年前に行ったロンドンがいまひとつピンとこなかったため、自分にはアングロサクソン(orゲルマン)系よりもラテン系の 方が合ってるのかもしれないと、わりと単純に考えた(これにはもう一つ、やはり体験に基づく理由があった。参照)のと、大学で美学をやっていたので、イギリス貴族のグランド・ツアーには遠く及ばずとも、古典文化の巡礼地であるイタリアをいちおうは見とこか、と思ったからである。ローマには古代の面影が、フィレンツェにはルネサンスの精華が、ヴェネツィアには独自の絵画の伝統がある、ま、いっぺんぐらい見とかなね、という、(またしても!?)修学旅行モードだった。個人的には何のゆかりもなかったイタリアに対して、スペインには友人が住んでいたので、むしろそちらの方を楽しみにしていたものだった。

 して、結果は・・・初めて永遠の都La Citta' Eternaに降り立った衝撃は、たいへんなものだった。関空からヘルシンキ乗り継ぎで、夜8時頃にローマのフィウミチーノ(レオナルド・ダ・ヴィンチ)空港に着いたのだが、飛行機が次第に高度を下げ、ローマ市街の光が近づいてくると、私はわけもなく興奮しだした。「翼よ、あれがローマの灯だ!」などと一人で口走ったりするものだから、隣席の友人はほとんど困惑の体で周りを見まわし、反対隣の席のフィンランド人女性は、幼子でも見るような微笑みを浮かべながら話しかけてきた。
 

 「ローマははじめて?」
「はい、そうです。あなたは?」
「私は何度か。娘がイタリア人のボーイフレンドとローマに住んでるので。」
「へ~、じゃ、いつでも行けますね!」
「そうね。でも、仕事があるから、そうたびたびはね。今はちょうど休みだから、娘に会いに行くのよ。」
「ローマは素晴らしいですか?」
「とても。」
 

 フィンランド人の女性と、そんな会話をした覚えがある。

 こうして夜のローマに降り立ち、バスで市内のホテルに向かうまでに、ライトアップされたコロッセオを見た。そのときの驚異に満ちた感動を語る言葉は、ない。ただ、立派な建造物不信がこのとき吹き飛んだこと、そして、いくつものを 積み重ねて、現在ここにこうしてあるイタリアの街々の魅力に取り憑かれる萌芽が、このとき芽生えていたことは確かである。 今にして思うと、このときのローマ・ショックが、その後の道行きを決めたようなものだ。これがなかったら、私はまだ宮仕えを続けていたかもしれない。そう でなくても一生続けるつもりはなかったが、やめるまでの踏ん切りは、まだついていなかっただろう。かつて「石橋を叩いても渡らない慎重居士」と言われたこ ともある私をして、教師という、世間的に見ればかなり安定した職業を放擲させるまでに動かしたイタリアとは、いったい何か?私とイタリアとの間には、何があ るのか?この素朴で個人的な疑問が、ひとつには私のイタリアへの情熱の根源である。
(2000/4/12)