マイ・ワンダフル・ライフ Chiedo Asilo

 イタリア映画は強烈だ。その一種独特の「救いのなさ」において。フェリーニの<甘い生活 La Dolce Vita>をあげるまでもなく、一見甘美なタイトルの響きに惑わされて、安直な予想をしていると、救いのない結末に猛烈パンチを食らわされることになる。 それがまた魅力でもあり、裏切られることを積極的に期待して観るようなところがあるのだが。マイ・ワンダフル・ライフは、久しぶりにタイトルと内容との鮮烈なギャップを見せつけられた作品。ただし原題は、Chiedo Asilo(私は保育所/避難所を求めている)という、実際の内容にかなり近いもの。主演がライフ・イズ・ビューティフルで一躍メジャーになったロベルト・ベニーニだからか、邦題はその二番煎じのようで少々安易な感がなきにしもあらず(制作年は<マイ・ワンダフル・ライフ>の方が古い)。
 
 保父として保育所にやってきた一人の男(R.ベニーニ)が、型破りなアイデアと行動で子どもや保護者の心をつかむ のだが、中にひとり、決して口をきかず、決して食べ物を口にしない少年がいる。どうやっても効き目がなく、とうとう施設に入るが、それでもやはり食べよう としない。医者からも、生きているのが不思議なぐらいだ、と言われる。夏休み、男はその少年を含む子どもたち数人をつれて、妻の故郷であるサルデーニャの 村へ行く。妻は、保育所で預かっている女の子の母親で、前夫は家出して行方不明らしい。彼と出会って間もなく妊娠し、彼女は喜ぶが、彼の方は何かしら煮え 切らない。
 そうこうしながらも、とにかく二人は結婚した。その妻が、出産のために帰っている生家へ、子どもたちをつれていくのである。相変わらず少年は口 をきかず、物もほとんど食べないが、それでも海辺の村へやってきて、少し変化の兆しが見られた。哺乳びんからジュースを飲み、表情も豊かになった。いよい よ妻が産気づいたとき、村の老女たちに「男はだめ」と言われ、分娩に立ち会うことができない彼は、アコーディオンを弾きながら、少年と浜辺で「語り合 う」。声が聞こえ、かすかに少年の口が動く。「え?海へ入りたいって?・・・いや、弾いてからにしよう」。男はアコーディオンを弾き終え、二人は海に入っ ていく。あとには少年が持ってきたカエルの入ったビンだけが残されて・・・赤ん坊の声が響きわたる。
 
 男の素性ははっきりとは示されない。セリフから知られるのは、若いころ過激派と何らかのかかわりがあったらしいと いうことと、以前つきあっていた女に2度中絶させているということだけである。ただ、要所要所に挟み込まれた映像と少年時代の声の断片が、幼少期に受けた とおぼしきショック体験と、潜在的胎内回帰願望を示唆していおり、根底で死を志向する彼のメンタリティを浮かび上がらせる。それは妻の妊娠に対するアンビバレントな態度にもあらわれており、妻をさいなむ。彼は口をきかず物も食べない少年に対する思い入れをいっそう強め、妻はその少年を恐れる。それは、新し い生命の誕生に対する、正反対の態度のせめぎあいである。男の潜在的な死への願望は、食べることを拒否(=生を拒否)する少年と共鳴し、さらに迫りくるわが子の誕生によって拍車をかけられる。最後の浜辺での少年との「対話」も、実は過去の自分からの語りかけに対する、現在の自分の応答であることを匂わせて いる。次の世代が生まれてくることになったとき、彼自身はもはやこの世に存在することができなくなったのだ。死に誘われる人間の精神のありようとは、こう いうものなのかもしれない、と思わされた作品である。
 
Note: 1980年/イタリア/カラー106分
(2000/4/15)